本を読む。好きな時間。

今日は晴れ。

ハンモックに寝転びロラン・バルトの『明るい部屋』を読んでる。

部屋には10号サイズの観葉植物が3つあり、その先には和紙アーティストのハタノワタルさんの作品が壁にかかっている。

太陽の光が窓から部屋の中に入ってくる。

網戸からは少し強めの風が入ってくる。

蝉の声が聞こえる。

遠くで電車の走る音も聞こえる。

ハタノワタルさんの作品の下で妻も本を読んでいる。食べ物に関する本みたいだ。妻はこの頃健康に興味がある。

妻の横では娘が寝ている。

本を閉じるとそんな風景がある。

そんな風景の中で本を読んでいる。

不必要な情報が入ってこない空間の中、というより好きなものに囲まれた空間の中で本を読むという好きな時間だ。

本は語りかけてくれる。著者と会話しているような不思議な時間。

ロラン・バルトは事実がどうとかそんなことはほとんど言わず、自分はこう感じてるんだってことを語ってくる。抽象的な考えや初めて聞く横文字の多さにたまにわけわからなくなるがそれもまた面白い。

最近読む本は理解するのに少し時間がかかる(実際には理解できてるのか怪しい)ものばかりだ。

ロラン・バルトはもうこの世にはいない。そんな人と話し合える感覚にしてくれるのが本の面白いところかもしれない。

ロラン・バルトがいつまで生きていたのか気になってググってみると、誕生日が一緒だった。だからなんだって話だけど、なんか変な感覚になったからここに書いておく。

知識に仕入れるために本を読む人が多い気がする。しっかり理解しながら覚えながら本を読み進めるから一冊読むのに時間がかかるとか。

それは、僕には少し理解し難い感覚だ。

僕は音楽を聴くように、映画を見るように、アートを観るように本を読むそんな感覚。知識を仕入れるというよりは、良いものを見て感覚を育てる的な。っていうとカッコよく聞こえるかもしれないが、ただ単に面白いものに触れる時間って感覚なのかも。

だから一冊読むのも割に早い方かもしれない。それが良いのか悪いのかなんてどうだっていい。僕はこうやって本に触れている。

本を読む、音楽を聴く、映画を観る、アートを観る、ダンスを観る

受け取る側がどう感じるかを作り手は考える。ただ、受け取る人の知識量や背景、興味、趣味嗜好によって受け取り方は変わる。本を作ったことがある人が本を読むとき、表紙のデザインや素材、ページ数や値段、文字のサイズや配列の仕方など内容以外のところにも興味がいくはず。もちろん内容にだって、こんな風な言い回しをするんだとか、ここで文章終わるんだとか様々な受け取り方をするはず。

僕は本なんて作ったことがないから、勝手な想像で書いてるよ。

でも僕も写真を撮ったり映像を撮ったりしてるから、それを観る時はそんな風に細かいところまで見てしまう。

それは結局作者がどんなふうに思いを持っていても受け取る人によって受け取り方は変わってしまう。

だから理解してもらうためにこうしようとか伝わるためにはこの方が良いとかはほとんどの場合くだらない考えだと思う。

ロラン・バルトのようにおれはこう感じてるんだ!って語ってくれてる方が潔くって受け取る方も気持ちがいい。

あ、娘が泣き出した。

最後まで読んでくれてありがとう。

娘をあやしてくるよ。

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